太古の炎と向き合う、能登の夜
人間らしさの象徴は「火」である
ひょんなことから焚き火を始め、感じたことがある。火をみることで穏やかになる感情。これは夜空と同じで、太古の昔から人類がずっと続けてきた行為であることが起因している(と思っている)。
そういった現象は、たとえば海や空でも同じことがあり、あの音や風そして光、そういうもので自分の遺伝子レベルで刻まれた無意識が反応するのは、僕だけではないだろう。
火祭り、能登への誘い
それを象徴するものとして、祭りがある。祭りは夜間に行い、そのど真ん中を占めるのは、だいたい火である。火を中心に囲み、火の子が空に舞い、そして消えていく、そんな見えないつながりの比喩をして炎を使うことがほとんどだ。
こんだけ暑いのに、まだ火を使い続けるたくさんの祭りがあることは、そんな関心事のある僕にとってはとても助かっている。ここにもかつて「おこったこと」の奇跡を感じることができるから。
そんなついでに「また」写真を撮っているんだけど、それを話すと、「能登の火祭り知ってます〜?」とお誘いが。なにやら巨大な松明を燃やし、海側に倒れるか、山に倒れるかで、豊漁、豊作を占う、ハッピーなイベントらしい。
そりゃ、いってみましょ。と、あきこ氏、もりちゃん氏を誘い、現場へ。
撮ることは、知ること
「どんと焼き」と言われる、お世話になったお守りや、だるまを焼くイベントは各地であるけれども、こいつは、そんな生やさしいもんじゃない。現地に着いてまず感じる。
近くの神社に高ーいお山車が行って神さまにご挨拶。小松明をもち、みんなが7周したら、それを投げ込み着火。なんで、なんで、と神事らしい、仕来りが歓迎してくれる。
熱と、写真と
地方ならではのゆるい仕切りのおかげで、直近まで近寄ることができて(あきこ氏の取材腕章のおかげ)、巨大なMY焚き火のような感覚で臨む。ある距離から、いきなり火が熱で体を突き刺してくる。
近寄りがたい、その温度に屈せず、進んでいくことで感じることがある。まるで結界のような、境界、写真だけは、その向こう側へ進むことができる。
歴史的には、人間のみが火を手に入れ、文明を築いた。のだが、なんとその火を手に入れた方法は未だわかっていない。というか、偶然っぽい、と。落雷や噴火、山火事が起こりその焼け跡にあった食べ物が柔らかくなっていた、とか、夜でも明るくすることができるとか、そんなひょんな感心から、こうやって文明として使いこなすまでには、なんとも、数十万年かかっていると言われている(最初の焚き火の痕跡は70万年前なんだとか)。
ここにも関心が。「おこったこと」を想像すること、それは疑問に思うことでもある。人間らしく、シンプルに、なんでだろう、に真っ直ぐ進んでいくこと、解は求めずに、ただ、まっすぐに、写真と共に。
〜のとの巻、完〜
能登の巻、その他の記事はこちら。
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(写真・文:鈴木心、編集:山田友佳里)