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質と量を兼ねることは不可分なのだろうか。

できるのなら、できないのなら、その理由はなんだろうと。人生も40年を過ぎると白髪が増えてくる、死にゆくサインを感じる、折り返しに入ったよ、と。

ただその折り返しルートは、マラソンや登山のように、往路とイコールではない、いつゴールするかわからない、見えない折り返し距離に突入しているということでもある。

杉本(博司)さんと仕事をするとき、いつもそのエックスデーの話になる。なにかを企画するとき、それはXデーがきたら、その後に、なんてことを話すのが日常だ。映像や写真は、まさに、その時のためにあると言っても過言ではない。僕は幸い、Youtubeという形で自分の遺影をそして思想をネットに保存している、その情報は人々の脳裏にさらに保存され、自分なき未来に、自分を想像する型取りの様なものになる。

自分の作品のために、アーティストとして写真を撮る。どうにもそこには、魅力を感じない。写真はいつも、被写体の雛形であり、記憶の乾湿作りなのである。乾漆作り、、、これは漆で、ものを作る技法で非常に効率のわるい技法。

  1. 土で原型をつくる

  2. そこに布、漆、のりを何重にもかさねる

  3. 穴をあけて原型を抜き出す

  4. さらに塗りたし整形して完成する

つまり
原型は消滅して、その外側だけのこるので、見た目は彫刻っぽく見えても中身は中空という日本の初期の仏像あるあるで、みんな木彫だとおもっているものが実は、この布と漆でつくられている、、、なーんてこともある。

  1. 体験する

  2. その体験を撮映する

  3. 体験の記憶は失われ

  4. 写真だけがのこる

なんかにている、体験は失われ、その記録だけがのこる。それを頼りに、僕たちは、あの日の体験と感情を思い出す。

記憶、そして体験は経過すると乾漆作りになってしまう。となると人間も同じなのか、と。原型は消滅し、記憶と記録だけがのこる。生命は、そんな繰り返し。いや、人間だけか、記録を残したがるのは。

さてさて、人生も折り返しに入った、ということだけれど、となると一旦の価値基準みたいなものもだんだん見えてくる。この40年で、これは良かった、というものに打ち勝つものがこの先40年で出てくるのだろうか、と。それは世界のせいではなく、自分次第。なんだけれど、体験というのは常に積み重ねである、と考えると、初期衝動に叶うものはなかなかない、もちろんそれがなければ、その先もないのだけれど。

過去に縋り付く、というよりは、過去をより今に生かす。過去に縋り付くと、ただリバイバルになるだけだけど、その要素を今に活かすためには、今を知り得ていないと変換はできない。だから僕自身は僕自身のルーツにより素直になることで次の一手の振り方も見えてくる。

いままでがある、だから、いまがあり、これからがある。シンプルだけれど、記憶も記録も繋がりの上にある。だからこれから、というものは、これまでにある。そう思うと、乾漆というのは空虚であるというよりは、常に世界は乾漆的であり、禅で言うと、在る、からこそ、空である、ともいえるのかもしれない。

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(写真・文:鈴木心、編集:山田友佳里)

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