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鈴木心の写真の読みかた#1

写真は見るものじゃない。目で読むものだ。

1枚の写真を説明するには文章にすると20ページ分の分量が必要だ、と聞いたことがある。

僕の最初で最後の写真集「写真」。収録されている写真はそのほとんどが学生時代に撮影したものである。まずは手始めにこの1ページ目の写真は、なぜ1ページ目にあるのかを説明してみたいと思う。


大学の友人、写真家で白血病で急逝した遠藤俊介は2浪したぼくよりも3歳年上の面倒見。カンボジア好きが講じて在学中、一年の半分は現地で遺跡を巡る生活、もう半分は東京でアルバイトに明け暮れていた。大学2年の終わりに遠藤君の誘いでカンボジアに行ってみることになった。チケットもタイの空港からの移動詳細も事細かく用意してくれ、僕はお金を振り込んだだけ。現地に到着するともらったメモ通りのバスに乗り、多くのバックパッカーと同じようにカオサンロードで沈没した。

6ヶ月。その後バンコクで暮らした。日本とアメリカ、タイを往復して大学3、4年を過ごす。根城したのはカオサン近くのプラースメンという通り。ここに居心地の良いゲストハウスがあった。なんだっけ、名前。歩けばすぐ近くにカフェラテ色のチャオプラヤ川があり、その周囲には公園があった。

夕方になるとバンコクのいたるところでエアロビが始まる。タイ独特の演歌のリズムを取り入れたダンスミュージックが鳴り響き、台の上の先生に習って体を振り回す。先生は日替わり。その中でも最も動きが鋭くって、早くって、みんながついていけない日がある。確か木曜日。夕焼け。

ベンチの上にのぼって、先生の照明に立ちフラッシュをあてる。フイルムの現像もプルーフのプリントも現地で行う。その方が安かった。出来上がった写真をみて、ぐぐっとくる。まるで広告写真みたいじゃあないか。これじゃあ作品とはいえないかなぁ。柄にもなく、四角形構図のカメラだった。

写真という道具は違和感の塊だ。動的な人の目で見れない静止画、そして焦点の深度を操作する絞り、時間を操作するシャッター。視界の一部を選択しなければいけない構図。光と色の取り合わせ。この自分らしくないけれど、この写真にはすべてが詰まっている。だから「写真」という写真集の幕開けにはこの写真がふさわしい。

写真は読みものです。

写真には静止して写っている向こう側の物語を想像する独特の楽しみがある。静止しているからこそ自由に想像してよい。その向こう側はいつもあなたのものだから。


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