写真は世界を問いつづけるために。
朝を覚ますと、まるでいま生まれたかのような感覚になる。映画でよくある、事件後、気絶をしていて目を覚ますあのシーン、はっ!って。
そんな最中、こんなYouTubeが。
佐藤さんは、メタップスという前進の時代から、ずーっとファンで、、、最近だんだんと注目されている(というかおそらく戦略的にメディアに出て、一石を投じている)のでいろいろお話しを聞く機会がおおく、、、ありがたや、、、、
はたして、僕たちが現実だと信じているこの世界線は、現実か? 実はこれに解を出せた人はいない、にもかかわらず、この現実への執着。映画マトリックスが提案した疑問は、科学よりも、デジタルによって、一歩進もうとしている。
砕くと、、、、
宇宙をはじめとする僕たちを形成する環境。これは、科学によってその摂理が解明されてきた、、、にもかかわらず、その構成する最小単位が、原子だ!、、、、いや違った、、、、などなど、ずーっと更新されていて、いまだに、脳のメカニズムも、宇宙のそれも、ぜーんぜんわかんない!なかで、僕たちは日常を過ごしている。
一方で、この世界は作りもんなんでは? というのは、AIとメタバース、そしてVRのテクノロジーによって、僕たちの現実の中にもう一つの現実を作ろうとしている、その過程によって、僕たちが現実を現実たらしめている、認知の仕組みが明らかになっていく。ということは、現実、というものも、そもそも何者かによっての作り物なのでは?
という構造とも言えなくなっている、それが神というなの脳みそなのか、その脳みその情報伝達を行なっている量子なのか、あるいな、その量子もつれ、といわれる、多次元のどこかにある、ぼくたちの脳みそのコピー、そして意識といわれるものの集合体なのか、それは、未知。
でも、今目の前の風景をみつめるときに、それが、ただの日常なのか、その向こう側を想像するのかで、ぜーんぜん違う。楽しさが、そして苦しさも。しかし、想像することが、人間らしさなのであれば、それは、光合成することが植物らしさ、ともいえるかもしれない。
人間は考える葦である。
我おもう、ゆえに、我あり。
僕たちは、何者だろう? そう思うことが、すでに、自己存在証明の始まりなのだ、とデカルトは言った。さて、今日は何を思い、なにを考えて過ごそうか。あ、そうだ、そんな現実の現実じゃない世界での、写真に何ができるんだろって。
今日のお写真:ライカM9とそろそろ仲良くなってきたような、、、、(どう\でもいい写真ズ)
本記事は、鈴木心写真学校のオンラインサロンで鈴木心が書きおろしているコラムを一部転載しています。オンラインサロンにご加入いただくとすべての投稿を最新・最速でご覧いただけます。
(編集・山田友佳里)