鈴木心 写真集『写真』のひみつ|アートディレクター・菊地敦己さんの巻
「写真」という名の写真集?
2008年に刊行された、鈴木心『写真』。鈴木心が独立した年。先日出版された『鈴木心の撮影ノート』は、以後10年の仕事のまとめ。一方、2008年以前の鈴木心の写真を見ることができるのが『写真』であり、それは後にも先にも、鈴木心にとって、唯一の「写真集」でもあるのです。今日は写真館スタッフゆもとが、その本の出版、そしてデザインをしてくださった菊地敦己さんに会いに行きました。
「出会いは、mixi!?」
「鈴木心は元気ですか? こないだたまたまラジオで鈴木心が出てるのを聞いて、なーに言ってんだっておかしくて久しぶりに連絡しちゃいました」と笑顔で迎えてくれた菊地敦己さん。
-J-WAVEですね。お聞きになられてお分かりかと思いますが、鈴木心は今日も元気です! そもそもおふたりの出会いはいつだったんですか?
「僕は心くんをすごい青田買いしたんだよ。どれくらいかな…独立する1年くらい前だったかな、元々阿野太一さんっていう建築写真家の方から心くんを紹介されて、心くんのWebサイト見たら当時にしてはかなり高解像度の画像をあげていた。それを見てmixiでコンタクトしたんだよね」
-ファーストコンタクト、まさかのmixiですか! そこから心さんの写真集を作ろうとなったのは、菊地さんの提案ですか?
「ちょうど心が独立する、しないって悩んでる時期に、独立するなら僕がデザインを担当する『「旬」がまるごと』の表紙やってよ、レギュラーで頼めるし、ってことでお願いしたんですね。」
「それで心くんと話す時間がたくさんあったから作品も見せてもらって、その時に、いいじゃん、いいじゃん、へえ〜じゃあ写真集作ろうよ、って(笑)」
“写真”が集まると、“写真集”
-その当時、心さんは自分の写真を高解像度でダウンロードできるWebサイトをやっていたと思うんですけど、それもありながら一方で「写真集」っていう形でも作品を見せようっていうのは、どういう意図だったんでしょう。
「そもそも作りたいと思った個人的な理由は、鈴木心っていう作家が面白そうだな、どうなっていくのかなって興味があったこと。もうひとつは、写真集っていうのは写真を定着させるっていうことだから、組み替え可能じゃないですか、時間や場所で区切ったり、別のストーリーを持ち込むこともある。写真一枚っていうのは、編集によってすごく意味が変わってくる。」
「それをどうやって本に定着させるか、動かないものにするか、ということを考えて意味合いと形を決めていく、それが従来型の写真集だと思うんです。でもそうじゃない写真のあり方もある、っていうのをやってみたかったんですよね。Webを便宜的に本に定着するとこうなりますよっていう写真集なんです。だから意味性が薄いというか、意味のあるタイトルをつけがたい、これは“写真”です、って…」
-「写真です」としか言えない。
「そうです。“写真”が集まると、“写真集”なんです。」
-ああ、たしかに…この装丁は、菊地さんが出した案なんですか? フレーミングするという行為をデザインしたと伺いました。
「まあね、そういうのもあるよね。あとは代替え可能っていうこと。1枚の写真に固定されるものではなくて、写真があるべき場所が設定されているだけで、入れ替えが可能っていうこと。写真にはそういう流動性もあるんじゃないかと思って。」
-Web上にある写真はネット空間に浮遊しているだけとも言えますし、まして写真を撮る目と、被写体は固定されることがない。フレームだけが存在し続けていて、そこになにを収めるかという選択肢は無限にありますもんね。
最初で最後だから全部盛り
-この写真集、3部構成になってるじゃないですか。結構色々な写真が入っていて。ざっくりと撮影のスタイルで分けられているそうですが、それを1冊にまとめる、というのも同じ考え方でしょうか?
「そう…でも当時は結構迷ったところがあるんですよね…実を言うと。1作ずつに区切って、これはこの作品の写真集、ってまとめた方が、写真集としては強度も作品性も高くなりますから。でも、そうやって鈴木心の写真をシリーズで括っていいんだっけなっていう気持ちもあって、基本的には全部盛り。この当時の心くんは広告の写真とかを個人でやってたわけではないから、まあ自主的な作品の範疇にあるものは全部載っけちゃおうか、っていう。」
-先日「もし今後また写真集を出すことがあったら、この写真集に付け足したい」って心さんも言ってました。
「分かる分かる。そうなんだよね。写真集のあり方みたいなものにあんまり従いたくないっていう気持ちが僕にもあったし、鈴木心もそういうタイプじゃないだろうなっていう感触もあった。」
-中の写真も、スタイルは違っても撮られた年代は被っているものが多いですし、そうやって常に写真を撮っているとすれば明確な「シリーズ」は本来存在しませんよね。心さんの言葉も、「今の自分の写真は、この写真集と地続きである」という意味なのだと改めて思いました。
態度もタイトルも一人前!
-そういうわけで、10年が経った今、この写真集をもう一度見直してみようという企画でした。
「ありがとうございます。」
-今こうして見返してみて、どうですか?
「当時とそんなに遜色ないと思いますよ、うん…でもタイトルがだめだったかなあ。」
-えー!!!
「いや、すごく良いんだけど、写真集と認識されがたい。『鈴木心 写真』って書いてあっても、当たり前すぎて、『ああ、あの本ね』っていうふうにならないなって。まあはじめからそういう見せ方をしてなかったからなんですが。あと、処女作にしてさ、終わっちゃうみたいじゃない(笑)。あまりにも総括的にすぎるんじゃないかって気も、今ではするけどね。」
-本人は、これしかないと思ってると思いますよ。このタイトルのアイデアは、菊地さんからですか? それとも心さんから?
「どうだったかなあ、忘れちゃったなあ。僕がつけそうなタイトルではあるね(笑)。でも結構相談しながら作ったんですよ。
『いや、すっげえいいと思うんですけど、やっぱこうじゃないっすか?』
『こっちのほうがよくないっすか?』って言ってくるから
『よくないっすか? じゃねーよ、じゃあお前がやってこいよ!』
って感じだったけど(笑)。そういうところ、今も相変わらず?」
写真とともにある人生を、ときどき振り返る、そのはじまりに、こんな写真集もある。10年という節目だけれど、これまでとこれからの間にあるのは、いつだって「区切り」ではなく「変化」なのかもしれません。
菊地敦己さん、ありがとうございましたっ!
(記事:湯本愛 写真:高木亜麗)